大正末期から昭和初期にかけての一九二〇年代(第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれたいわゆる戦闘期)は、さまざまな大衆文化が花開いた時期である。出版文化も例外ではなく、各種ハウツー本がさかんに出版されている。冠婚葬祭マニュアルがまとまった形で出てくるのも昭和の初期だ。この時期に冠婚葬祭マニュアルが求められた理由はおそらく二つあるだろう。ひとつは儀式のスタイルが変わりつつある時代だったこと。まだまだ都市だけでの風俗であったとはいえ、明治の末に登場した神前結婚式、告別式型葬儀はともに認知度を上げ、新しい方式への関心は高かった。人々が冠婚葬祭に多大な興味をもっていたことは、婦人雑誌がこの種の記事をたびたび載せていたことからもうかがえる。もうひとつは都市への人口集中、都市化の進行である。
なぜ長寿銭を出したのかということについて、亡くなった方のお孫さんの話によると、何度かこのような長寿銭をもらった経験があり、百歳を超えていてたいへん縁起がよいということで、長寿銭がお守りの代わりになるという感じがしたために、遺族が話し合って、会葬礼に付けることにしたのだという。もらった人はうれしいというのが率直な感想であり、比較的若い四十代の人たちの多くはこの長寿銭をむしろ珍しいと感じ、百歳を超えた長寿にあやかるという気持ちはあまりない。ここでは長寿銭は縁起物ととらえられており、死にともなう不幸の観念は二の次になっている。そのことから考えると、長寿銭は新しい民俗であるが、その前の型に撒き銭があるのかも知れない。それは昭和三十年代より以前にすでに消滅してしまっているが、お葬式のさい、野辺送りには花籠に十円硬貨などをたくさん入れて、葬列の途中で花籠を振りながらお金をばらまいていった。埼玉県鴻巣市では、このお金を投げ銭とか撒き銭と呼んでいたという。弔い銭とよぶこともあった。
「株式会社○○△△部××課マネージンクディレクターA様平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます……」何度もメールをやりとりしているのに、長々と型どおりのあいさつを書かれることは、よそよそしく他人行儀な印象をもってしまうもの。3度くらいやりとりをしていれば、「いつもお世話になっております。さてこのたびの○○の件ですが……」程度のシンプルさで充分。忙しい中でのメールは、短く簡潔なほど親切だ。メールは相手の状況が見えないツール。一方的に送りつけたものに「明日までに返信ください」と差し迫った期日を指定するのは失礼だ。「即返信するのが当然」という前提は自分の都合。相手は出張中かもしれないし、たまたま休みかもしれない。時間に余裕がないなら一本電話を入れて、急ぎであることを断ってからメールを送ること。ただ、お互いに締め切りがあるとすでにわかっている場合はメールで「○日までに」もOKだ。